2010年09月10日

夏目漱石の多読論

多読というのは英語学習の一ジャンルとして地位を獲得した気がする。ワシも多読派なんでしょうね〜。

もっとも「なんちゃらかんちゃら多読メソッド」というのは読んだことがない。簡単な児童書から始めて、段階を踏んで最後は一般用のPBへ、とかいうのだっけ。いいと思う。しかし、いいオッサンが児童書というのは、なかなかツライものがあるんではないかとも思うな。

こういってはなんだけど、多読系のブログはたくさんあるんだけど児童書で××万語突破!というのが多いな。大人なんだから、児童書を何冊読んだとかじゃなくてさっさと一般用に進めばいいのに。児童書が好きで読んでるのならそれはそれでいいんだけど、TOEIC何点突破!というのが多々あって正直萎える。なんつーか、ファンデメンタリストって多いなあ・・・。まあ余計なお世話ですね。

夏目漱石は明治の知識人としては飛びぬけた英語力をもってたんだろうけど、こんなこといってる。(引用長いです。)

「英語を修むる青年はある程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山読むがよい、少し解らない節があって其処は飛ばして読んでいってもドシドシと読書していくと終いには解るようになる、又前後の関係でも了解せられる、其れでも解らないのは滅多に出ない文字である、要するに英語を学ぶ者は日本人がちょうど国語を学ぶような状態に自然的習慣によってやるがよい、即ち幾変となく繰り返し繰り返しするがよい、ちと極端な話のようだが之も自然の方法であるから手当たり次第読んでいくがよかろう。彼の難句集なども読んで器械的に暗唱するのは拙い、殊に彼のようなものの中から試験問題等出すというのはいよいよつまらない話である、何故ならば難句集などでは一般の学力を鑑定することは出来ない、学生の綱渡りが出来るか否やを視るぐらいなもので、学生も要するにきわどい綱渡りはできても地面の上が歩けなくては仕方のない話ではないか、難句集というものは一方に偏していわば軽業の稽古である。試験官などが時間の節約上且つは気の利いたものを出したいというのであんな者を出すのは、ややもすると弊害を起こすのであるから斯様なもののみ出すのは宜しくない」

おお、素晴らしいな。漱石が生きてたら、今の英語教育になんていうのでしょうね。「難句集というものは一方に偏していわば軽業の稽古である」なんてのはいまでも適用されるな。漱石の時代はラジオもなかったのであるから、英語を聞くなんて外国人と直接話すしかなかったろう。よって読むことに傾斜してるのはいたし方ないと思う。

いまはネイティブの英語を24時間いつでも聴くことができる。ワシが高校生の頃でもネイティブ英語を「聞く」ってのは至難の業でござりました。AFNの入る地域が羨ましくてならず、せいぜい「セサミストリート」みるくらい。それでもめちゃくちゃ難しく、ナチュラルスピードてのはとんでもないもんだと思ったものです。

リスニング教材がこれだけ充実してくると、そりゃ関心も高まるわな。ワシが興味深いのは、TOEICが70年代終わりだかに登場し、その後隆盛を極めたのが、ビデオ・CD・インターネットなどの進歩とほぼ軌を一にしてることだ。ワシがTOEICをはじめて受けた頃は教材はまだ「カセット」だったことを思うと嘆息してしまう(笑)。

日本人はリーディングは得意なのにリスニングがだめ。学校教育の弊害だ。これからはコミニュカティブなTOEICこそが信ずるに足る。なんて「英語が得意なひと」は思ってたんだろうな(笑)。全部裏切られてる気がするけど。TOEIC自体には罪はないかもだが、運営団体がこの風潮を利用したことは間違いないだろう。なんたって「ビジネスイングリッシュ」だもんな(笑)。カッコエエし。

でもまあワシはTOEICでいい点取れそうもないのでごまめの歯軋り。

もういっぺん英文を読むということの重要性についてかんがえたほうがいいんじゃないかなあ。ここに来るヒトはそんなこととうにお気づきだろうケドね。で、漱石はこんなことも。

「英語は斯ういふ風にやつたらよからうといふ自覚もなし、唯早く、一日も早くどんな書物を見ても、それに何が書いてあるかといふことを知りたくて堪らなかつた。それで謂はゞ矢鱈に読んで見た(中略)先づ自分で苦労して、読み得るだけの力を養ふ外ないと思つて、何でも矢鱈に読んだやうである」

こういう男前な考え方はいいな。たぶん漱石の100分の1も読んでないけど、ワシもほんとそう思う。
ワシもがんばらんとな。
posted by デンスケ at 21:15| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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